(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【:2018年06月28日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


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甲賀市水口町泉 史跡 東海道横田渡〔横田橋〕


滋賀県甲賀市水口町泉にある「史跡 東海道横田渡〔横田橋〕」です。

この場所には東海道にまつわる巨大な「東海道横田渡常夜燈」や「金刀比羅宮」など史跡が満載です。

なお、直ぐ近くには一里塚もあるようです。

東海道に興味が湧いてきました。

取り敢えず滋賀県内だけでも走破してみることにします。。


東海道横田渡

鈴鹿山脈に源を発する野洲川は、このあたりで「横田川」と呼ばれてきました。

伊勢参宮や東国へ向かう旅人は、この川を渡らねばならず、室町時代の史料にも「横田河橋」の名が見えています。

江戸時代に入り東海道が整備され、当所は東海道十三渡のひとつとして重視され、軍事的な意味からも幕府の管轄下に置かれました。

そのため、他の「渡」と同じく通年の架橋は許されず、地元泉村に「渡」の公役を命じ、賃銭を徴収してその維持に当たらせました。

これによると、三月から九月の間は四艘の船による舟渡しとし、十月から翌二月までの間は、流路の部分に土橋を架けて通行させたようです。

野洲川と支流の杣川が合流する当地は、水流も激しく、また流れの中には巨石も顔を見せ、道中の難所に数えられました。

「渡」の景観は、往時のガイドブックである名所図会や絵図にも多数描かれており、旅人でおおいに賑わいました。』

境内掲示より



横田橋の歴史

横田橋の名は、寛正二年(1461)五月二十四日の室町幕府奉行仁文書(山中文書)に「酒人郷横田河橋」として見えるのが早く、京都西芳寺(さいほうじ)によって橋賃が徴収されていた事が知られています。

江戸時代には、東海道の「渡」のひとつとして幕府の管轄下に置かれ、渇水期には土橋が架けられたほかは、船渡しとなっていました。

明治二十四年、泉・三雲間を結ぶ長大な板橋が架けられました。

この石垣は当時の橋台の一部です。

その後、昭和4年には下流に橋が移され、同二十七年には、国道1号線の敷設によって現在の横田橋へと推移しました。』

※ 境内掲示より



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使用している数字等は、2012年01月00日の日本経済新聞等を参考にしています。