(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【:2017年06月08日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


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湖南市吉永 三雲城址


滋賀県湖南市吉永にある「三雲城址(みくもじょうし)」です。

旧東海道から直ぐにあった浄土宗 吉祥山 西往寺から道案内の道標にあった三雲城址八丈岩を目指してやって来たのですが、門前から山を見た時に見えて岩であることに気づきました。

毎度の事ですが、重機の無い時代にこんな山の上のアクセス困難な場所に郭を設けて城を築くなんて人間業ではないような気がしてなりません。

えらいことを成し遂げるもんです。


三雲城(みくもじょう)遺跡について

三雲城(みくもじょう)(吉永城)は、三雲氏の主家である安土の観音寺城主・佐々木(ささき)六角(ろっかく)高頼(たかより)が逃げ込み用の本城として長享(ちょうきょう)二年(1487)に三雲(みくも)典膳(てんぜん)に築かせた城で、東西約300m、南北200mにも及ぶ広大な城域を有していました。

しかし、織田信長の京都侵攻に際して三雲氏は最後まで主君の六角(ろっかく)氏に従ったために、元亀(げんき)元年(1570)に織田方の佐久間(さくま)信盛(のぶもり)の攻撃を受けて山裾にある三雲屋敷と供に落城しました。

その後、天正(てんしょう)年間(1573 - )には廃城となっていましたが、天正(てんしょう)十三年(1585)に甲賀市水口町に豊臣秀吉の家臣中村(なかむら)一氏(かずうじ)が岡山城と築いた際に石垣等が用材として持ち去られたと言われています。

城の縄張りの中心部は、四ケ所の(くるわ)によって構成されており、北側の(くるわ)は約500m×40mの広さがあり井戸も残っています。

また北側の(くるわ)の北東部分には三方を巨大な石材を用いた穴太積(あのうづ)みによって築かれた22.4m×12mの大きな桝形遺構(ますがたいこう)虎口(こぐち))が残っています。

当城は、六角(ろっかく)氏が度々逃げ込んだことが記録にのこされており、城内には佐々木(ささき)六角(ろっかく)氏の家紋(()目結(めむすび))を刻んだだ石が残っています。』

境内掲示より



三雲城址(みくもじょうし)

長享(ちょうきょう)二年(1487)に三雲(みくも)典膳(てんぜん)佐々木(ささき)六角(ろっかく)高頼(たかより)の命によって築いた城で、東西約300m×約200mの広大な城域を有していたが、元亀(げんき)元年(1570)織田信長により落城した。』

※ 境内掲示より


もう少し事前情報があると良かったのですが、ぶらりと移動している途中でしたので残念ながらよく理解できていません。


関連情報レポートリンク

【城跡・城址】