(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【:2016年06月07日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


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甲賀市信楽町宮町 紫香楽宮 宮町案内図


滋賀県滋賀県甲賀市信楽町宮町にある「天平の歴史浪漫 紫香楽宮(しがらきみや) 宮町案内図」です。

新名神高速道路の高架橋を過ぎてすぐにこの案内板に気が付きました。


紫香楽宮(しがらきみや)歴史街道

紫香楽宮(しがらきみや)と大仏建立がこの紫香楽で!

 ― 仏都に托した聖武天皇の夢と浪漫 ―

紫香楽宮(しがらきみや)は、奈良時代中頃に聖武天皇が離宮として造営した都です。

この時代は、遣唐使によって海外からさまざまな文物がもたらされ、中国唐の三京制や渤海国の四京制を参考に、日本でも中核都市をネットワークで結ぶ新しい都作りが行われました。

信楽の地に都が造営された理由には諸説がありますが、恭仁京(くにきょう)を唐の洛陽城に模し、洛陽の郊外で造られた龍門石窟に対比する場所が信楽だったとする説が有力です。

神亀元年(724)に平城京(へいじょうきょう)で即位した聖武天皇は、神亀三年(726)の(難波宮(なにわのみや)、天平十二年(740)に恭仁京(くにきょう)を造営した後、天平十四年(742)から信楽の地で紫香楽宮(しがらきみや)の造営を開始しました。

「続日本紀」には、天平十四年二月に恭仁京(くにきょう)から甲賀郡に通じる道路(恭仁京(くにきょう)東北道)が完成し、八月には、紫香楽宮(しがらきみや)への行幸が初めて行われたことが記録されています。

天平十五年(743)十月には、紫香楽宮(しがらきみや)で「大仏建立の詔」を発し、「甲賀寺」で大仏(東大寺(とうだいじ)大仏の前身)建立が始まり、仏都として紫香楽宮(しがらきみや)の工事が急がれました。

さらに天平十七年(745)の元旦を紫香楽宮(しがらきみや)で迎えた聖武天皇は、「首都」の証とされる大楯と大槍を宮門に立て、「新京」とも呼ばれるようになりました。

しかし、都市をネットワークで結ぶという天皇の壮大な構想は、過大な建設費や群発地震などの発生によって頓挫し、天平十七年五月にふたたび都は平城京(へいじょうきょう)に戻されました。

幻の都と呼ばれていた紫香楽宮(しがらきみや)は短期間ではあったものの大仏建立など「仏都」としての都市づくりが始められた信楽の文化発祥の地にあたります。

聖武天皇 紫香楽宮(しがらきみや) 行幸の道

天平十四年八月には、(恭仁京(くにきょう)から和束を経て湯舟、ほそ峠を越え信楽への行幸が初めて行われ、現在の甲賀市信楽町宮町を中心に黄瀬、牧周辺を遷都の地に定め、紫香楽宮(しがらきみや)の造営が始まりました。


【加茂町瓶原(みかのはら)】 ― 【和束】 ― 【湯舟】 ― 《ほそ峠を越えて信楽へ》 ― 【朝宮】 ― 【長野】 ― 【勅旨】 ― 【牧】 ― 甲賀寺跡【黄瀬】 ― 【宮町】


この街道は「続日本紀」天平十四年(742)二月五日の条に恭仁京(くにきょう)東北道を始めて開き、近江国甲賀郡に通じるとあります。

古代の官道、歴史的古道に当ります。

信楽町観光協会 平成十七年設置』

境内掲示より


天平の歴史浪漫 紫香楽宮(しがらきみや) 宮町案内図


毎度のことながら「案内図」に掲示されている史跡の中には辿り着けないことも少なくありません。

残念です。


関連情報レポートリンク

【地域名所案内図(マップ)】