(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【:2014年03月19日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


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守山市守山 中山道守山宿・稲妻型屋敷割りの道


滋賀県守山市守山の「中山道(なかせんどう)守山宿(もりやましゅく)」と「稲妻型(いなづまがた)屋敷割(やしきわ)りの道」です。

守山市守山に鎮座する「天満宮(てんまんぐう)」の鳥居前に説明書きがあります。

道幅がかなりあるのでなんとなく解放感があるのですが、「本陣(ほんじん)」もあるので。広さが必要であったという事でしょうか。


中山道(なかせんどう)守山宿(もりやましゅく)

守山は古来、東山道の宿駅として栄えました。

江戸時代に入り、東山道から中山道に改められた。

寛永十九年(1642)守山宿は、徳川幕府より、中山道の正式宿場として制札が下され認可されました。

中山道は板橋(東京都)から守山までの六十七次で守山は最終宿場でした。

江戸時代、旅人の一日の工程は八里(約32キロ)から十里(40キロ)でした。

京都三条大橋から守山までが八里六町(約34.4キロ)でこの工程にあたる。

京都から中山道を通って江戸方面に行く(東下(あずまくだ)り)人たちは守山で泊まりました。

この事から「京だち守山泊り」と呼ばれ守山は明治維新まで繁栄しました。

平成二十五年五月

中山道守山宿歴史文化保存会

守山市観光物産協会』


少し突っ込みを入れると『六十七次で守山は最終宿場』『守山は明治維新まで繁栄しました。』では、今はあかんのかいなと思います。

私はむしろ『六十七次で守山は東下(あずまくだ)りの始め宿場』『守山は明治維新も繁栄の歴史を積み重ねています。』と書きたいですね。


稲妻型(いなづまがた)屋敷割(やしきわ)りの道

中山道(なかせんどう)守山宿(もりやましゅく)街道筋(かいどうすじ)距離(きょり)が、文化十四年(1817)の記録では千五十三間、内民家のある街並みが五百六十九間という長い街村(がいそん)であった。

宿場の西端には市神社(いちじんじゃ)があり、その向かいには高札場(こうさつば)があった。

この高札場(こうさつば)から東に約40mには宿場の防火、生活用水となった井戸(いど)跡がある。

街道筋の特色は、このあたりの道が最も幅広く、高所にあることと道路に沿った民家の敷地が、一戸毎に段違(だんちが)いになっていることである。

段違(だんちが)いの長さは一定ではないが、およそ二から三尺で、間口(まぐち)の幅には規定されていないことがわかる。

この屋敷の並び方がいつごろから行われたかを知る史料はないが、守山宿が守山市と関連して商業的機能と宿場を兼ねたことで、問屋(とんや)庄屋(しょうや)本陣(ほんじん)市屋敷(いちやしき)などを管理するため、あるいは怪しい人物が現れても反対側から容易に発見できるなど、治安維持ののための町づくりであった。

守山市教育委員会』


興味深い街並みです。

JR東海道線の草津駅から5分少々の距離でしょうか。