(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【:2020年01月15日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


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伊賀市喰代 百地丹波守城趾


三重県伊賀市喰代にある「伊賀流上忍 百地丹波守城趾(ももちたんばのかみしろあと)」です。

ここへたどり着くのに百地氏城跡周辺案内図で示されている寺院などがあります。


百地丹波守砦跡由来記

戦国期(1500 - 1600)に伊賀忍者の二大巨頭の一人として鞆田村の藤林長門守に拮抗して南伊賀に勢力を張っていた伊賀流上忍百地丹波守はこの地に根拠地としていた四囲の土壁は天然地形に若干の人工を施してしるが天然密室を形造っている。

壁内の廣さは約三百坪、この中に三太夫の館はもとより忍者の集会所家人どもの住居もびっしりと建てられていたのだ。

天正九年伊賀の乱(織田信長の伊賀攻略戦その時百地丹波守は最後にはその分城近くにある名張郡柏原村のとりでに籠り城開城とともに行方不明になっている)の際自ら焼き放ったものと考えられるが、今は全く跡形もなくなっている。

砦の近所の百地家菩提寺青雲禅寺(せいうんぜんじ)には喰代百地家代々の墓がある外、本覚了誓禅門の名を残す過去帳があり藤林と百地は同一人ではないかという疑いを濃くしている。

百地家の家紋

― 図省略 ―

家紋は、七曜星に二枚矢羽根、矢ちがい矢羽根紋よりして、百地家が服部族の出であることは、明らかであると思われる。』

※ 境内掲示より


百地氏城跡(ももちししろあと)

百地氏は伊賀流の忍者、百地丹波守(ももちたんばのかみ)が有名ですが、史実としてはほとんどわかっていません。

しかし、天文十三年(1544)の史料に「喰代(ほおじろ)もも地殿」と見えることから、戦国時代には北伊賀地域の有力な土豪(どごう)として知られていたようです。

百地氏城跡に代表される土塁(どるい)(ほり)防御(ぼうぎょ)施設を設けた中世城館跡(ちゅうせいじょうかんあと)は、市内に二百五十ヶ所余りあります。

その中でも喰代(ほおじろ)蓮池(はすいけ)地区は、中世城館跡(ちゅうせいじょうかんあと)が数多く分布する地域で、周辺には安場氏(やすばし)館跡や奥氏(おくし)城跡・上山氏(うえやまし)館跡など十四ヶ所の中世城館跡(ちゅうせいじょうかんあと)が確認されています。

この城跡は丘陵の尾根を利用してつくられたもので、最も山よりの郭から現在の青雲寺(せいうんじ)まで含めると、長さ 250m 、幅は最も広い所で 60m で、市内でも有数の規模となります。

城跡の構造は、尾根を削平(さくへい)して作った(くるわ)を連ねたように配置したもので、四つの(くるわ)(左図郭A-D)が段々に形成されています。

この中で(くるわ)Cは 70×40m と最も大きく、四方に土塁(どるい)を築いているほか、南側に自然地形を利用した堀、東側には堀切(ほりきり)があります。

周囲に(くるわ)Cを防御するための(くるわ)(左下図、郭Ⅰ-Ⅳ)を設けたり、進入路屈曲させるなど防御の工夫を凝らしていることから、百地氏城跡の中心部分(主郭(しゅかく))と考えられます。

主郭(しゅかく)を巡る土塁(どるい)は北側・西側・東側の土塁(どるい)の外側は崩れが著しく、工事により保護されていますが、内側はよく残り、当時の様子をうかがうことができます。

南側の土塁(どるい)は一部がなく、また他の土塁(どるい)と比べて低いことから当時は塀があったのかもしれません。

東側の土塁(どるい)主郭(しゅかく)の中で最も高く、土塁(どるい)の上が広くなっていることから、かつては見張り台のようなものがあったと考えられます。

また主郭(しゅかく)郭内には幅 1m 余りの溝があります。

これは、当時郭内を区画した痕跡と考えられます。

― 図省略 ―

上野市・上野教育委員会』

※ 境内掲示より


城址や砦跡を訪問してもせいぜい土塁があったり、出入り口とされる虎口がある程度で知識の無い私には良く解りません。

それでもネットではかなりの訪問情報が紹介されていますのでファンはかなりおられるようです。

宮址でも思うことですが、奈良の平城京(へいじょうきょう)跡などは長い間ずーーとただの空き地でした。

せいぜい凧揚げや弁当持ちのピクニックを楽しむ程度でしたが、大極殿が再建されたりすると魅力的なものになりました。

この様な史跡もひと工夫すれば解りやすいのですが…。


関連情報レポートリンク

【城跡・城址】