(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【:2019年12月10日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


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伊賀市服部町 天台真盛宗 香華山 臺上寺〔台上寺〕・服部六郎時定 屋敷跡


三重県伊賀市服部町にある「天台真盛宗 香華山 臺上寺(だいじょうじ)台上寺(だいじょうじ)〕・服部六郎時定 屋敷跡」です。

伊賀市のお寺も残り少なくなってきました。

私は朱印等を集めるほど高尚な趣味を持ち合わせているわけでもなく、怠りカトリック信者ですが、仏像の高い芸術性には魅せられています。

お寺には関係する故事なのでしょうか。


服部六郎時定 屋敷跡

服部六郎時定の屋敷は、当台上寺域に有ったと伝えられて居る。

本堂の東と北に残る土塁は東西に100米、南北に70米で堀跡と推定される。

水田、畑地が有って、中世土豪の屋敷跡とされ、当服部町に残る貴重な遺跡である。

服部六郎時定とは伝承上の人物で「三国地誌」には服部村の「宮城氏邸跡」を、時定後裔の地に当て「伊水温故」には「源頼朝郷の従士、服部六郎時定、当郷の産出にて源氏服部の元祖也と記されて居る。「平家物語」の「泊瀬六代」には「信太三郎先生義憲が伊賀の地へ落ぬと聞えしかば、服部兵六、先として伊賀国へ発向す」とあり、義憲を現大山田村千戸の山寺で自害せしめた功により、平家領として没収された服部郷を復されたと言う。

この服部平六時定と同人と伝承されてきた。

たしかに平家服部一族はその後の伊賀の各地に広がっているが、さらに先祖は「源平盛衰記」巻一の「五節夜閣」にあらはれる「平家家長」とする話しが加はり、平六家長、服部平六、服部六郎時定と三人が重なって来る。

文治二年(1186)「吾妻鏡」に平六時定が大和の国宇多郡で源義経の聟伊豆有綱を討って自殺させ、左右兵衛尉に任ぜられたと有る。

又、平六時定は治承四年(1180)八月二十日も源頼朝が伊豆から相模に向かった時に従った一人(吾妻鏡)とされ、平六時定が文治二年(1186)頃伊賀付近で活躍しており、それらが重複して服部六郎時定なる人物像が出来たようである。

それに台上寺(だいじょうじ)の当地移転以前に有った土豪屋敷が服部一族を結び付き、近世になって時定屋敷と言はれるようになった。

尚、当寺の秘仏であると伝えられ三十三年目に一度の御開帳時に、お姿を拝むことが出来る。

平成三年 台上寺

参考

1159 平治の乱

1160 源頼朝伊豆に配流

1167 平清盛太政大臣となる

1180 源頼朝挙兵、木曽義仲挙兵

1185 屋島の戦い、壇の浦の戦い

安徳天皇入水、平家滅ぶ

1186 一条能保、京都守護になる

1189 源義経、衣川に殺す

1192 源頼朝。鎌倉に幕府を開く』

※ 境内掲示より


歴史の話には視点が異なる文書があれば全く違うという証拠でしょうか。

尾鰭がついて話がコンガラガッテしまうと何のことやらさっぱりわからなくなるということでしょう。


このお寺の近くには花菖蒲が咲き誇っています。

72歳で三株貰ったお婆さんが2017年4月に102歳で亡くなるまで丹念に育てたという事で、子孫の皆さんが大切に守っておられます。

お寺の駐車場横にも花菖蒲が咲き誇っていました。(2017年6月10日)


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