(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【:2019年06月16日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


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伊賀市小田町 史跡 鍵屋の辻


三重県伊賀市小田町にある「史跡 鍵屋の辻(かぎやのつじ)」です。

何やらあるなと思っていましたが、演劇の世界でも有名な場所であったということですか。

文芸と歴史音痴の私の興味の範囲外でした。


日本三大仇討、伊賀越鍵屋辻の決闘

事件の発端は、寛永七年(1630)七月十一日の夜、備前国岡山藩士河合又五郎が同僚の渡辺源太夫を殺害して、行方をくらましたことにはじまります。

時に又五郎は十九歳、源太夫は十七歳でした。

藩主池田忠雄候は、又五郎の行方を探らせたところ、江戸で直参の旗本安藤治左衛門方にかくまわれていることが判明したので、身柄の引き渡しを申し出ましたがこれに応じなかったので事件は大名と旗本との対決へと発展しました。

源太夫の兄渡辺数馬は、藩主より上意討の免許をあたえられ、大和国郡山藩につかえる姉婿荒木又右衛門に助太刀を頼み又五郎の行方を追い求めて旅立ちました。

諸国を逃げ回っていた又五郎は、武芸の達人河合甚左衛門、桜井半兵衛らに警護され江戸に下ろうと、寛永十一年十一月六日には奈良から笠置を越え、その夜、伊賀国島ヶ原に投宿しました。

これを知った数馬、又右衛門の主従四人は、翌七日、伊賀上野城下西のはずれの鍵屋ノ辻にある茶屋萬屋で待ち伏せていました。

又五郎の一行十一人は人目をはばかるように早朝の宿をたち、鍵屋ノ辻にさしかかったところ、数馬、又右衛門は一行の前にたちふさがり、仇討の主意を伝え、斬りかかりました。

又右衛門は、河合甚左衛門、桜井半兵衛とわたりあってこれを討ちとり主勢を崩しましたが、まだ又五郎と数馬の勝負はついていなかったので、かけつけた又右衛門は数馬を叱咤し、激闘のすえ大願を成就しました。

検視に立ち会った藤堂藩は、部門の作法にならい数馬、又右衛門の武勇を讃えるとともに、又五郎の霊を懇ろに弔いました。

世にこの本懐を「伊賀越鍵屋辻の血闘」と呼び芝居などで天下の話題となりました。』

※ 境内掲示より


荒木又右衛門の名は伊賀市白樫に鎮座する「岡八幡宮(おかはちまんぐう)」に名前があったような気がします。