(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【:2018年08月27日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


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津市乙部 真宗高田派 太楽山 上宮寺


三重県津市乙部にある「真宗高田派 太楽山 上宮寺(じょうぐうじ)」です。

西来寺(さいらいじ)参拝を終えて周辺を散策して驚いたのですが、お寺だらけです。

このお寺は木造ではなく、近代的な建物にかわっています。

それにしても少しばかり驚きを隠せません。


太楽山上宮寺(じょうぐうじ)縁起

そもそも当寺は推古天皇の御代聖徳太子二十三歳の御時、十六歳の御姿を自彫して納められた霊場である。

その由来を訪ねると聖徳太子が諸国巡業のおり安濃津(あのつ)に来られ一寺の建立をお思いになられ伊勢の国造りに命じて阿漕(あこぎ)が浦に七堂伽藍の紫雲寺(しうんじ)を創建されたことに始まる。

その後舒明天皇より上宮皇之寺の頼額を賜る。

和銅三年(710)平城の興福寺(こうふくじ)に従属する。

下って元久年間(1204)興福寺(こうふくじ)の僧西津律師(さいしんりっし)が宿縁あって入寺する。

仏教の諸宗を習学するも悟ることかなわず聖徳太子に末世相応の大道を祈願する。

嘉貞二年(1236)西津(さいしん)は安濃津に訪れた親鸞(しんらん)顕智(けんち)上人に強化を蒙り面授相承して聖道自力の門を閉じ本願他力の念仏門に帰依する。

西津(さいしん)は当寺を念仏道場として強化するに安濃津(あのつ)の人々信仰を集める。

阿漕(あこぎ)平治の怨霊を平氏友盛と共に(とむら)う。

応永二十五年(1418)室町将軍足利義持、伊勢参宮の祈りの宿泊所にする。

この頃、安濃津(あのつ)は港町として諸国と盛に交易する。

当時はそのような商人を檀家に持って活気ある寺院になり人々から親しみをこめて俗に安濃寺(あのじ)とも阿漕寺(あこぎじ)と呼ばれる。

寛正年間(1460)高田本山(たかだほんざん)の第十世信慧(しんね)上人が当寺を拠点に南勢地方を強化する。

文明六年(1476)一身田に専修寺(せんじゅじ)が建立される。

明応七年(1498)地震と津波が安濃津(あのつ)を襲う。

天正八年(1580)安濃地域の築城の為、寺基を現在の地に移す。

往古伽藍の地は津興(つおき)阿漕塚(あこぎつか)の地)として残される。

慶長五年(1600)関ヶ原の役により津城下兵火にあり類焼する。

昭和二十年(1945)の大戦まで境内地千二百坪に本堂(九間)、太子堂(四間)、山門、鐘楼、経蔵、別堂、手水舎、土蔵(什物)、客殿、書院、庫裡の堂舎が整っていた、

聖徳太子がご創建されてより幾星霜をすぎましたが太子の衆生利益は今でも盛んであります。

当山』

※ 境内掲示より



『津市有形指定文化財

所有者 上宮寺(じょうぐうじ)

彫刻 木造 阿弥陀如来(あみだんひょらい)立像(りゅうぞう) 一幅

平安時代 平成六年二月二十一日 指定

この像は上宮寺(じょうぐうじ)の本尊で、像高 93cm 、右手、左手とも1・2指を曲げた来迎印を結び、作風から平安時代末期に作られたと考えられる。檜材を用い、全体が前後に割りはがれており、背面には補材をあてている。表面は金泥の上に一部漆箔が認められる。顔面は江戸時代に手が加えられ、若干、表情に変化が見える。台座、光背は江戸期に作られたが、昭和二十年の戦災により焼失し、台座はその後つくり直されている。

絵画 絹本着色 聖徳太子(しょうとくたいし)絵伝(えでん) 六幅

室町時代 昭和五十二年七月二十日 指定

本幅は、室町時代の製作と推定され、保存状態の良好な絵伝であり、その描写もすぐれたものである。各幅も霞によって画面を区切り、下からほぼ年代順に上に向かって太子の生涯の事跡を描き、それぞれに銘札をつける典型的な太子伝である。

絵画 絹本着色 親鸞聖人(しんらんしょうにん)絵伝(えでん) 二幅

室町時代 昭和五十二年七月二十日 指定

第1幅には、下方より上方にむかって親鸞(しんらん)の出家得度、吉水初対面、六角堂夢告、選択集及び真影の付属等を、第2幅には同様に、常盤国坂敷山、箱根権現所、熊野證、誠殿大谷廟堂等の場面を収めている。親鸞聖人(しんらんしょうにん)絵伝(えでん)は、1幅本から8幅本までの各種あるが、本幅は他に福井市浄得寺(じょうとくじ)が現存するのみのの貴重な2幅本の一本である。

絵画 絹本着色 光明本尊(こうみょうほんぞん) 一幅

南北朝時代 昭和五十七年七月二十日 指定

光明補本尊とは、初期真宗教団において用いられた本尊である。中央の名号から放たれる光明の中に仏菩薩、高僧、先徳の像を配置した曼荼羅様の絵画である。濃い紺地に金泥で中央に大きく「南無不可思議光如来」の九字名号を、向かって左側には「南無阿弥陀仏」の六字名号を、右下には「帰命尽十方無碍光如来」の十字名号を記し、中央各号からは三十六条の光明を放っている。

書跡 紙本墨書 浄土以筆相承抄(じょうどいひつそうしょうしょう) 一巻

室町時代 昭和五十七年七月二十日 指定

本書は「浄土以筆相承抄(じょうどいひつそうしょうしょう)」と内題し、まず真宗教義上重要な意義をもつ文言を抄出している。つづいて、口抄念仏を重んじた真宗高田派第十世信慧(しんね)の思想の神髄を述べた消息法語を集めている。内題の下方と巻末には、信慧(しんね)自筆の花押がある。このことは、右筆に書写させた本書を信慧(しんね)が誤り無きものと証し、門弟に与えたものであることを示している。

津市教育委員会』

※ 境内掲示より


上宮寺(じょうぐうじ)阿漕平治(あこぎへいじ)略縁起

阿漕平治(あこぎへいし)の伝説は、昔よりいろいろと語られていますが、その真実(まこと)の事は語られていません。

遠い昔の様子など調べないまま、そして平氏(へいし)も今もって勢力(いきおい)がなきから平氏(へいし)の出の人とも誰ともわかりません。

寺記に伝わるところでは、年月を過ぎて元久(げんきゅう)の頃(1204)になっても平治の怨念(おんねん)ははげしく、平治の亡くなった七月十六日の夜は、毎年(あみ)を引く声を聞くと里の人が言い立て、そのうえ疫病(えきびょう)が続いて多くの男女が亡くなるので、いよいよ恐れて全くこれは平治が怨霊(おんりょう)なりと言い伝えられた。

平治が怨霊(おんりょう)とは、昔阿漕(あこぎ)が浦は皇大神宮(こうたいじんぐう)神膳(しんぜん/rt>)に供える御贄所(ごにえしょ)であり、他の魚猟(ぎょりょう)はさしどめる厳しい(おきて)がありましたが、平治は阿漕(あこぎ)が浦に夜々(よなよな)忍んで、ひそかに(あみ)を引いて(りょう)をし、度重ねていましたが、ついに国司(こくし)にも聞こえて取り調べを受けますが、平治は気にもせずさらに(りょう)を続けるので国司(こくし)は怒って役人を率いて生捕(いけど)りにし、憎しみのあまり言もいわさず直に簀巻(すまき)にしてさかさまに海底に沈めてしまった。

誠にいたわしい最後にいきどうりを覚える。

さてここで(1240頃)平氏(へいし)友盛なる人が、平治は罪を受けた人なので誰も訪れる人もなく今日に至っているので(あわ)れなことと思い、当時の西津律師(さいしんりっし)にたのみ其のお(とむら)いを願った。

西津(さいしん)も同じ思いで二十一日間の念仏(ねんぶつ)三昧行(ざんまいぎょう)と三部妙典(みょうでん)を小石に一字づつ写して海底に沈める。

ほどなく平治の亡霊(ぼうれい)西津(さいしん)の枕辺にあらわれて(いわ)く。

尊師(そんし)のお(とむら)いを得て執念(しゅうねん)の雲晴れ、(うらみ)の苦しみをのがれ、この度、浄土(じょうど)往生(おうじょう)する也り、(うれ)しい(とうと)いことと言い、吾が雨宝童子(うほうどうじ)の像を奉安して当寺の守護神にと、見えたが夢が覚める。

枕元には一箇の石が置かれてある。

海に沈めたはずの経石(きょうせき)である。

しかし雨宝(うほう)の像は見あたらない。

このことを友盛についたえると感涙(かんるい)を流しながら吾が家に伝わるし雨宝(うほう)尊像(そんぞう)これなるかなと西津(さいしん)の前にもたらされた。

いま当寺に安置の霊像なり。

毎年七月十六日(新暦八月十六日)には代々の住職は旧地の境内阿漕塚(あこぎつか)のもとに出歩して読経念仏(どきょうねんぶつ)いたす(なら)いとなっている。』

※ 境内掲示より



南禅寺清韓長老墳

文英清韓(ぶんえいせいかん)長老は、安土桃山時代、臨済宗の僧、鈴鹿市三宅町に生まれる。(1568 - 1622)

京都・東福寺(とうふくじ)南禅寺(なんぜんじ)の住職を務める「韓長老」と尊敬された近世仏教界の長老

豊臣秀吉在世のころ豊臣家の外交顧問として朝鮮の役には加藤清正を率いて文筆をとる

関ヶ原ノ役も秀吉の息子秀頼の学問上の顧問を務める

豊臣家の京都方広寺(ほうらくじ)大仏殿建立において大梵鐘(だいぼんしょう)(現存)の鐘銘文(しょうめいぶん)を起草する。

徳川家はこの銘文の中にある国家安康(こっかあんこう)君臣豊楽(くんしんほうらく)の語句を問題視し大仏開眼供養(だいぶつかいげんくよう)の中止を求めた

事態は豊臣と徳川家の対立に発展し大阪の役の遠因となった

文英清韓(ぶんえいせいかん)は元和七年五十三歳で亡くなっている。

又、当寺には秀頼自筆の南無阿弥陀仏の書を残している

當山』

※ 境内掲示より


縁起に「聖徳太子」が無ければもっと信憑性は高いと思うのですが、折角の縁起が信用できなくなってしまいます。


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