(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【:2017年10月23日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


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津市美杉町上多気 北畠神社


三重県津市美杉町上多気にある「北畠神社(きたばたけじんじゃ)」です。

参拝と紅葉を目的に若宮八幡神社(わかみやはちまんじんじゃ)北畠神社(きたばたけじんじゃ)北畠氏庭園(きたばたけしていえん)などこの周辺を散策しようとやってきました。

同様の目的でやってきた方々が少なくないようで駐車場も満杯でした。

北畠氏庭園(きたばたけしていえん)が境内の一隅にあることを知って探す手間が省けたと大喜びですが、入園は人が多すぎたので次回へ先送りにします。

紅葉はぎりぎりのところかもしれません。


北畠神社(きたばたけじんじゃ) 由緒

(旧別格官幣社)

祭神 従一位 右大臣 准后 北畠顕能公

配祀

北畠親房公(父)

北畠顕家公(兄)

例祭日 十月十三日

建武中興の偉業は半ばにして破れ、後醍醐天皇は三種の神器を奉じて吉野山に仮の皇居を設けられた。

時に延元元年(1336)十二月、以降五十七年間を世に南北朝時代と言う。

北畠親房は、学徳衆に優れ、天皇の信任篤く、常に側近に在ったが動乱に際して自ら陣頭に指揮をとり、足利勢と対決した。

大楠公以下諸忠臣相次いで戦没し、長子の陸奥守鎮守府将軍顕家も亦、延元三年(1338)五月若干二十一才で阿倍野(大阪市)の露と消えた。

神皇正統記は親房が常陸國の戦陣において筆を執ったもので、国体の本義を明らかにして、南朝の正統を天下に宣言し、後世に大きな影響を与えた文書である。

顕能は興国三年(1342)に戦略上の拠点として。この地に霧山城を築き、伊勢国司に任ぜられた。

この位置が当時の居館の跡である。

館は多気御所又は北畠御所と呼ばれていた。

その生涯五十八年のうち、実に四十五年の歳月は南朝護持のために捧げられたものである。

大小の合戦六十数回、二度までも京都を奪還した功績は偉大である。

南朝方の大御所として、後醍醐、後村上、長慶の三帝に仕えて忠誠をつくした。

弘和三年(1383)七月廿八日多気に没す。

以後九代二百数十年に亘って、伊勢国司は一志・飯南・度会・志摩の南勢五郡と紀伊・伊賀・大和に及ぶ領域に善政を布いたが天正四年(1576)十一月、天下制覇を狙う織田信長の謀略により、具教は三瀬の館(多気郡)に於て殺され、北畠氏は滅亡した。

寛永二十年に一族の末裔鈴木孫兵衛家次、この地に小祠を設けて北畠八幡宮と呼び村人の尊崇を受けつつ幕末に至った。

昭和三年十一月天皇御即位の大礼の日に別格官幣社に列せられたが終戦とともに廃せられた。

霧山城跡

標高五六〇米、遥かに吉野連峰を望む。

昭和十一年国の「史跡」に指定せらる。(美杉村所有・管理)

北畠氏館跡庭園

享禄元年(1528)管僚職細川高国の作と伝う。

当代庭園中三名園の一つに数えられる。

昭和十一年国の「名勝」及び「史跡」に指定せらる。』

※ 境内掲示より


再訪問必須になりましたが、思っていたよりもアクセス路で迷ってしまいました。

地元の方に尋ねてやっとたどり着いたのですが、道標が少しばかり不思議な配置でした。

人の少ないときに再訪問することにします。


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