(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【:2017年10月04日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


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名張市安部田 錦生のあの道この道


三重県名張市安部田にある「錦生のあの道この道」です。

奈良県との県境に有るこの地域は度々通過します。

史跡旧跡など見どころも数多く存在しています。


『おきつもの(なばり)の山を今日から越ゆらむ

錦生のあの道この道

悠久(ゆうきゅう)の時の流れを辿(たど)

名張市錦生地区は、奈良県と三重県の山々に囲まれ、宇陀川と清流・阿清水川が合流する静かな田園地帯です。暮らしやすい気候風土で、古の都・奈良、京都に近かったこともあり、早くから歴史の舞台となった地域です。

古墳時代から現代に至るまで悠久の時の流れの中に人々のさまざまな足跡を辿ることができます。』


錦生の花 白萩

秋が深まり始める九月下旬ごろ咲きます。かつては沢山咲いていましたが、今では数が少なくなりました。錦生小学校の校庭に大きな株があります。』


錦生の地名の由来

伊勢神宮(いせじんぐう)を創建した倭姫命(やまとひめのみこと)が錦を織られた地とされることから、錦を生んだ由緒ある土地という意味で明治二十四年に当時の村名として「錦生」と名づけられました。』


わが背子は何処行くらむおきつもの隠の山を今日も越ゆらむ

万葉集より

「私の愛する人は今ごろどこにいるのでしょう。名張の山を今日あたり越えているでしょうか」と万葉集に歌われているように、名張市は万葉の時代から、都と飛鳥と東国を結ぶ重要な場所でした。』


文字が書けるタラヨウ

モチノキ科の常緑樹で推定樹齢三百年のタラヨウ、葉の裏に木片などで文字を書くと黒変して鮮明に浮かび上がることからエカキバとも呼ばれています。』


黒田無動寺(むどうじ)

真言宗醍醐派で本尊は不動明王(ふどうみょうおう)。市域きっての古刹で、平安後期の創建と言われ、鎌倉初期には既に名張郡内の有力寺であったことが記録に残されています。江戸時代には醍醐派の中本山として賑わいました。

「阿弥陀如来来迎図」「両界曼荼羅図(名張市文化財指定)」などが残っています。』


勝手神社

千二百年前に東大寺(とうだいじ)の黒田荘無動寺(むどうじ)の僧、実誉上人が、吉野より勧請し、無動寺(むどうじ)の鎮守としたのが始まりです。名張市を一望できる絶景ポイントです。ご来光も拝めます。南北朝時代の作とされる石燈篭(いしどうろう)があります。(三重県指定有形文化財指定)』


山の神信仰

山の神様がずらっと並んでおられます。明治時代に地元各地に点在する多数の神社が合祀されたためでしょう。』


木造不動明王(ふどうみょうおう)立像

むかし、むかしのことやった。人々の難儀を救うために弘法大師が黒田地域へやってきたんや。山あいの不動滝で修業をしていたときや。紫雲に乗って不動明王(ふどうみょうおう)が岩の上に降り立って申したんや。「この地に寺を建て、人々の難儀を救え」早速、大師は寺を建て、不動明王(ふどうみょうおう)を彫ってあんちしたらな。寺の上に七日間紫雲が立ったんや。

村の古老(明治三十三年生まれ)のお話から』


笠間峠

中世・黒田の悪党が活躍した奈良への歴史街道。現在も、東大寺(とうだいじ)二月堂(にがつどう)のお水取りの松明を運ぶ松明調達行事でこの峠を越えます。峠への坂の入口は黒田坂です。東大寺(とうだいじ)に年貢を納めるために運搬した道です。』


法泉寺(ほうせんじ)仏足石(ぶっそくせき)

明治の初めごろ、田んぼの中に神の使いの鹿の足跡と伝わる仏足石(ぶっそくせき)があったんや。ところがその田の持主が整地するのにその石が邪魔になって割ってしもうたのや。その後、この家では不幸が続いたもんで、法泉寺(ほうせんじ)に弘法大師の像を祀ることにしたのや。この像の基石や石積みの東隣の角に割れた仏足石(ぶっそくせき)が使われていると伝えられておるのや。

村の古老(明治三十三年生まれ)のお話から』


カミガモシダ

中部以西の本州から九州まで自生する常緑のシダ植物です。各地で数が減り、三重県では絶滅危惧種とされています。』


古墳群鹿高神社(かたかじんじゃ)

境内には巨大な前方後円墳があり、石室を見学することができます。墳丘からは円筒埴輪の破片などが出土しており、築造時期は六世紀前後と推定されています。この丘陵地一帯は、東大寺(とうだいじ)に材木を収めた荘園時代には、板蠅杣(いたばえのそま)の用材地だったと言われています。用材は宇陀川から名張川・木津川と流され、木津で陸揚げされて奈良の都へ運ばれました。階段下の石燈籠は鎌倉時代の作と推定されます。』


野花菖蒲の群落

花菖蒲の原種の群落です。かつては市内の湿地には広く分布していましたが、今では希少種となっています。』


おいしいお米「伊賀米」の産地の一つです。山に挟まれた盆地で寒暖の差とよい水がお米をおいしくします。』


百俵堤(ひゃっぴょうづつみ)(現在の国道)

昔、宇陀川の黒田のあたりはよく氾濫して困っていました。そこで江戸時代に米山長兵衛という人が米百俵を出して村の人たちに堤を築かせました。今もほんの少しだけ堤が残っています。』


初瀬街道(はせかいどう)(現在の国道)

大海人皇子皇子が壬申の乱の時に吉野山から大津へ攻めるとき通った道で、参宮街道とも呼ばれ、江戸時代には関西の人々がお伊勢参りに通行した重要な道でした。しかし、断崖絶壁の巨大な岩が宇陀川の真ん中に張りだし、岩に掛けられたくさりを握り、急流の川渕を伝い歩いた難所でもありました。明治十四年に地元民1万人を動員して取り除き、県道となり岩焼から坂の下までの左岸の石積みを終え、街道が完成しました。』


猪尻橋(いのしりばし)

川の水が多い時は沈んでしまう潜水橋(せんすいきょう)であるため、通称しずみ橋と言われています。市内に三か所ある橋の一つ。昭和初期に作られたもの。』


高橋(たかはし)

洪水のたびに流されていた木造の橋が、昭和五年に念願のコンクリートの橋となりました。』


本居宣長歌碑

江戸時代の国学者・本居宣長が、昭和九年(1772)四十三歳の時吉野山紀行である「菅笠日記」に錦生地区をたどった記載があり、その一文を刻んでいます。』


<有史以前から古墳時代>

名張市内では、今から七万年ほど昔の遺物がいくつか出土しています。古墳時代に入ると名張にも多くの家族が現れ、四から六世紀ごろにかけて大小様々な古墳が築かれました。』


<飛鳥・奈良時代>

天皇を中心とする支配体制が確立した飛鳥・奈良時代、日本書紀には、天智天皇死後の皇位継承をめぐる壬申の乱(672)で、甥・大友皇子と争った大海人皇子(のちの天武天皇)が東国へ進軍する際に名張を通ったと記されています。鹿高地区にはこの時の逸話として、大雨で氾濫した川を皇子を乗せて越した白鹿伝説が伝承されています。矢川春日神社(かすがじんじゃ)は、その折の感謝を表し、天武天皇が春日の神を祀ったとされています。』


<平安から鎌倉時代>

「黒田荘」は、わが国の荘園研究でもっとも有名な荘園です。奈良時代に孝謙天皇が東大寺(とうだいじ)大仏殿を建立したときに板や柱になる巨木が茂る大和から伊賀にかけての区域を東大寺(とうだいじ)荘園(領地)として寺に寄進されました。以来、黒田荘は東大寺(とうだいじ)板蠅杣(いたはいのそま)の地として多くの職工たちが集まるところとなりました。錦生地区は黒田を中心とした黒田本荘と呼ばれ、また、宇陀川右岸は黒田新庄として矢川地域に別所がおかれ、荘園経営の中心地で開いた。

やがて開墾した田地の所有者が力を持つようになり、大地主が生まれ、年貢の取り立ての厳しい東大寺(とうだいじ)などの荘園領主と対立するようになり、いわゆる黒田の悪党と呼ばれた人びとが出現しました。』


<江戸時代>

大平の世になり、名張の地に伊予国から藤堂高吉が転封してきたのは寛永十二年(1635)のことです。以来、明治四年の廃藩置県まで二百六十年余り、十一代にわたり名張藩がこの地に西方の守りとして居を構えていました。南伊賀の中心都市として発展してきた名張には、現在でも風情のある街並や名張藤堂家邸跡をはじめ、多くの文化財や祭り、伝統産業、食べ物など城下町の歴史をとどめる文物が残されています。。』


<今も続く行事 獅子舞>

錦生地区では、伊賀一之宮・敢国神社(あえくにじんじゃ)起源とする獅子神楽が九つの集落(谷出・井手・鹿高・黒田・竜口・上三谷・結馬・小屋出・坂ノ下)に伝承されています。各地域の神社に奉納されるとともに、家々の前で獅子を舞う「村まわし」がおこなわれています。』



照葉樹林の森

鹿高神社(かたかじんじゃ)春日神社(かすがじんじゃ)の杜>

天然林の面影残す照葉樹林の森です。』


『錦生の人と水の歴史を物語る熊岩

熊岩

江戸期には宇陀川の水利工事と新田開発が進みましたが、矢川の「熊岩」はその象徴です。巨岩と宇陀川の淵、水際に連続して穿たれた穴は、木製の水路を透すために絶壁を穿った名残です。

明治十八年。熊岩の水路問題を解決するため、村民は結束し水路を通すためのトンネル工事に踏み切ります。約三年の難工事の末、山の裏側にあたる春日神社(かすがじんじゃ)まで「矢川隧道」というトンネルが開通し、矢川の水利は安定しました。

熊岩には熊穴伝承があり、水神碑も設置されています。』


秋葉山と秋葉神社(あきばじんじゃ)

標高433mとこのあたりでは一番高く、初瀬街道から名張市街までを広く見渡すことができます。山頂には土塁の跡などが残っており、かるて福寿峯城と呼ばれる砦があったと推測されています。荘園時代 - 戦国時代にかけて「黒田の悪党」と言われた土豪衆によって、見張り場やのろし場として使われていた様子がしのばれます。

時代は移り、山頂には、鳥居や燈籠、本殿のほかに拝殿まである「秋葉神社(あきばじんじゃ)」がつくられました。江戸時代には火伏の神様として、一月の鎮火祭の日には遠方から参拝客が山頂の社殿まで列をなすほど賑わっていたそうです。当時、参道には石段が敷かれ、松並木がありましたが、戦時中の松樹油の供出のため、そのほとんどが伐採されていましました。』


岩焼

川が削られて岩盤が表装に現れています。』


南北朝時代の石灯籠

竿部分の銘文に南朝の年号「正平八年(1353)が刻まれています。県指定文化財』


利口にあるイチイガシ

ブナ科の常緑高木で、ドングリの形の実は食用となります。はっきりとした樹齢はわかっていませんが、とても古い巨樹です。』


勧請縄(かんじょうなわ)

疫病などのケガレの進入を願う奈良・平安時代からの信仰の一つです。秋葉神社(あきばじんじゃ)で毎年元旦に女子竹、新わらなどをもちより、祈祷後に縄づくりをし、道路をまたいで綱を張ります。名張市では、この上三谷地区だけで行われています。』


阿清水川

奈良県宇陀市から三重県名張市に流れ込む支流、水が清く、昔からホタルが群飛ぶことで有名。江戸時代にはホタルが江戸藩邸に献上されていました。』


数百本のヤマザクラ

平成十八年から地区の住民がヤマザクラを植えています。春には桜、初夏にはホタル、秋は紅葉が楽しめる山間の里山です。』


赤目の里山

NPO法人赤目の里山を育てる会が、里道を復元や整備を行い、休耕田をビオトープとして再整備し、里山の保全と管理を行っていいます。

自然豊かな里山には、世界一小さなハッチョウトンボや、三重県指定希少野生動植物種として指定されているカワバタモロコ(コイ目コイ科の小さな淡水魚)などが生息しています。』


忍者の見張台

秋葉山、城山、竜王山と山々に囲まれた竜口は外からの敵を防ぐ格好の土地でした。いざというときには、その山々からのろしを上げて、村に連絡をしました。』


百地三太夫

百地家は服部家と藤林家とともに、どの武将にもつかず独立した伊賀の里の上忍三家の一つでした。百地三太夫は、伊賀天正の乱で最後まで抵抗し、赤目地区の柏原城砦で籠城作戦を行った末に多くの仲間と共に最後を迎えた忍者として、語り継がれています。六十九歳だったとされています。今も、百地家の屋敷とその周辺の里山の風景には、往時の面影が偲ばれます』


子どもたちと錦生

亥の子餅(亥の子つき)

旧暦十月(亥の月)の初亥の日に行われます。 準備からすべて子どもたちだけで行う行事です。宝珠を縄で結び、子供たちが縄を上下させ、大地を搗きながら、村内の各家々を回り、家内安全、無病息災、豊作を祈ります。かつては男の子だけの行事でしたが、今では子どもの数が少なくなったため女の子も参加して行われます。』


からうす

家の中の土間にあった杵つきのこと。お米を搗くのは子どもたちの仕事でした。』


石切り場と勧請縄(かんじょうなわ)

むかし、上三谷のことを「石切三谷」とも呼んでいたんや。大きな石を切り出す石切場が村の入り口にあたる北の山すそにあってな、質がええんやさかい、神社の鳥居や燈籠に使われたそうやわ。この石切場の前の谷に、むかしから正月五日に必ず勧請縄(かんじょうなわ)という太いしめ縄を張ることにしていたのやわ。地区に悪魔がはいりこまんようにな。今は十五日に縄とわらで作るのやわ。

村の古老(明治三十三年生まれ)のお話から』


秋葉神社(あきばじんじゃ)

「この山には、古くから秋葉神社(あきばじんじゃ)がまつられておりましてな、毎年一月十二日(今では十五日)には、伊賀や大和、それに伊勢方面からも、わらじばきでお参りする人々でいっぱいやったんです。登り道にのぼりの旗なんか立てて、それはにぎやかやったんですのや。女の子らは、屋台でおはじきを買うてもらうのが楽しみでしたんや」 「秋葉さんの山に、昔、遠州からやってきた秋葉坊主という悪い坊さんがおりましてな。この秋葉坊主が秋葉さんの宝物を前部売り払って酒に替えて飲んでしまったんですのや。 この秋葉坊主が泊めてもらった家にお礼に秋葉さんのお札を渡したんです。それからしばらくして、その家の一体が火事になったんですのや。家の人は秋葉さんのお札に向かって「家はやけませんように」と一生懸命お願いしたんですのや。すると不思議なことに、隣近所の家が全部焼けてしもうたのに、その家だけは火災にあわずそっくり残ったそうですのや。

村の古老(明治二十二年生まれ)のお話から』


狐の嫁さん

昔、昔の婚礼の夜のことや。伊賀竜口と大和龍口との境になるさんまい峠に出るさんまい坂をちょうちんの明かりを先頭にした嫁さんがあがってきたのや。その姿を見て、呼びかけたんやが返事がなかったのや。「おかしいな」すると、ちょうちんの明かりはすーっと脇の山に入って消えてしまったのや。きっときつねが化けた嫁さんやったんやろなあ。

村の古老(明治三十三年生まれ)のお話から』


はがため

名前は堅そうだけど、こどもの成長を祈って、噛む力を強くするために乳飲み子に食べさせたお菓子です。寒い時期に20日間ほど乾燥させて作ります。

錦生地区で昔から作られているお菓子です。完成まで二十日間もかかる。まさにスローフード!かたいお菓子かと思えば…。

【材 料】

 ― 省略 ― 

【作り方】

 ― 省略 ― 』


<戦国時代>

黒田の悪党と呼ばれた武装した荘園の自治組織は、独特の戦闘組織や築学体系を背景に後に忍者と呼ばれる存在となります。その中でも伊賀忍者は有名で支配的地位にあった上級の忍者(上忍三家)の一部は名張に拠点を置いていました。

十六世紀の終り頃、天下布武を目指す織田信長親子による伊賀忍者壊滅作戦「天正伊賀の乱」が二度にわたって展開され、名張の地は文字通り焦土と化しました。

錦生地区も初瀬街道沿いに進軍してきた浅野長政、新庄殿河守勢によって、蹂躙され、黒田荘は八百年の長い歴史を閉じることとなりました。』

地縁法人 錦生自治協議会


赤目渓谷への入口でもありますし、見どころ満載盛り沢山です。


関連情報レポートリンク

【地域名所案内図(マップ)】