(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【:2015年10月06日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


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伊賀市法花 應感神社


三重県伊賀市法花に鎮座する「應感神社(おうかんじんじゃ)応感神社(おうかんじんじゃ)〕」です。

この周辺に来るのは初めてで田植えの季節に来てしまったので、地物との農業者の作業に少しばかり迷惑をかけたところもなきしにもあらずで申し訳なく思います。

参道下の交差点に「應感神社(おうかんじんじゃ)境内地」という石標がある赤い鳥居があるのですが、一の鳥居とすると向きが違うような気がしますので「御旅所」なのでしょうか。


応感神社(おうかんじんじゃ)本殿創建の由来

我国の戦国時代の永い争乱の続く中に、織田信長天下布武の旗を揚げ数萬の大軍を率いて唐突に伊賀国に進攻した。

世に謂う天正伊賀乱である。(1581)

信長軍の鉄砲騎馬軍団に国内は蹂躙されて焦土と化し、住民は離散、老若男女を不問或は傷つき或は戦死した。

其の惨状は鬼神も顔を背けたと後世、伊賀乱に記されている。

乱後半世紀を経て世は藤堂治世となるや漸くに落ち着き、復興の兆しが現れた。

地区民は「里内安穏」「五穀豊穣」「住民和楽」の祈りを起靖文に托し、神佛を敬仰し氏神応感之宮の本殿を建立した。

神像に大慈大悲の菩薩十一面観音像を安置し永遠の平和と繁栄を祈願したのである。

この神像は、如幻翁伊水温故に神殿奥深く光華明彩美しく光り耀くいていたと記されている。

時に寛永十三年(1636)天正伊賀乱より五十五年の歳月が流れていた。

以来数度の改修繕を加えつつも維持保全の賜物である。

今回新世紀二千年を迎えるにあたり第二次に亘る平成の大修繕工事を行い、茲に荘厳絢爛な建立当時のままに復元した。

すべての氏子崇敬者の寄進浄財に依るものである。

神明の照覧、御加護を祈念して由来を記す。

平成十二年(2000)二月

稲住宮司記』

※ 境内掲示より



應感神社(おうかんじんじゃ)

当社は、国史現在社にして農業の祖神豊受大神(とようけおおかみ)を主神として祀るが故に、農村の氏神として氏子の崇敬最も厚く、殊に祈年祭の五穀豊熟祈願の護産は他町村の農業者等が詣でて豊産を祈り、神符を拝受する者年と共に多し。』

※ 伊賀 神社参拝案内図より



靖国社(やすくにしゃ)創建之記

明治以降日本が近代国家として急速に発展していく中に幾多の戦争を経験した。

この国家有事に国民は好むと好まざるとに不拘、戦場に赴き、又、其の目的遂行の為に約二百数十万人の若人が戦死した。

この靖国社(やすくにしゃ)は当法花、七本木地区より国事国難に殉じた二十九柱の英霊を奉斎した社祠である。

酷寒の北辺の果に、灼熱の南冥の海に、又遠い中国の山野に故国の空を仰ぎ、家族妻子の名を呼びながら、望郷の情切々として散華した二十九柱の魂魄、天翔り国翔りて、この御神域に神留りて、永久に郷土を守らせ給えと祈念と感謝を込めて、昭和二十六年(1951)九月秋分の日、氏神境内に建立したのである。

今、平和国家として蘇生した現代に生きるもの、ゆめ、奉謝、鎮魂の御祭、わすること勿れ。

昭和二十六(1951)年九月二十四日

靖国社鎮座祭奉仕

― 省略 ―』

※ 境内掲示より


伊賀盆地の北側山麓に位置している應感神社(おうかんじんじゃ)ですが、参道脇には「山ノ田城跡」があり、背面には竜王山があり登山口にもなっているようです。

「竜王山登山道イラストマップ」によると、数々の名前を付けられた巨岩・奇岩があるようで磐座ともなっているようです。

標高970mの山頂には三角点もあり伊賀地方有数の原生林と紹介されています。

気候の良い時期に登ってみたいと思います。


関連情報レポートリンク

【伊賀 神社参拝案内 一覧】〔名張市〕・〔伊賀市〕