
三重県伊賀市鳳凰寺にある「鳴塚」です。
道端で「道標」を辿ってきたのですが、いつもながら途中で不安になるほど心細いのは毎度のことです。
知っている人には何ともないことでしょうが、最後の案内から延々と田んぼの中の道を登って来たのですが、もう少しで行き止まりになるのではないかと思った頃に何やら休憩所のようなものが見えてきました。
本当に毎度毎度、地元の人の作成した「道標」には泣かされます。

『鳴塚
この塚は、昔から「天皇の御譲位がある度に塚が鳴る」ということから「鳴塚」と言い伝えられてきた。
全長三十七米の前方後円墳である。
鳴塚は、この地方を開拓し、教化・統治に力を尽くした豪族で、伊賀采女宅子を生んだ山田郡司の墓であるとか、天智天皇崩御の後、故郷に帰り住んだ宅子の陵墓であるとかいわれている。
又一説には、壬申の乱になくなられた大友皇子の陵墓であるとも語り伝えられている。

以前、この地に「鳴塚社」が鎮座していた。
毎年三月二十八日、采女宅子をしのんで祭礼が行われた。
宅子は、美ぼうの上に才えんの姫で、年中緑色の御召物だったことから、里人は宅子をしのび宅子にあやかりたいと、お宮で作った椿餅(椿の葉で包んだ餅)をこぞって頂いて帰った。
更に、弘文天皇(大友皇子)の命日にあたる七月二十三日にも、にぎやかな夏祭りが行われた。
明治中期に社が合祀されるまで続いたこれらの祭りは、鳴塚と里人の、史実を越えた深い心のきずなを物語るものとして、忘れてはならないことでもあろう。
また、鳳凰寺には、弘文天皇、伊賀采女宅子にまつわる地名等が多く残されている。
今後の古代を探る手掛りとなるものであろう。
昭和六十一年十二月吉日建立
大山田観光協会』
私には不思議な場所に古墳が存在しているとしか考えられません。