
三重県伊賀市守田町に鎮座する「八幡神社〔〔八幡宮〕」です。
隣接して九品寺があります。
名阪国道の伊賀インターチェンジから名張方面へ向かうのに見えているのですがアクセス方法が解りませんでした。
思い切って左折してみると、細い道をたどっていけることが解りました。

『長岡八幡宮由来記
古書によれば五世紀末「人皇二十五代武烈帝の御宇、伊賀国造中田麻呂勅を奉じて九州宇佐より阿蘇山の地に勧請す、山城国石清水より遥か以前の造立なり」とあり今より約千五百年遡る。
爾来畿内に通ずる大和街道の要所に鎮座し、木津久米両河川合流の豊饒肥沃の地に農耕生活を営んだ古代人の信仰の対象であった。
当時四十九院村には、農耕神を奉斎した日吉、高松社あり。
奈良聖武帝の御代僧行基、諸国に精舎を建立の際、弥勒院を日吉社境内地に造立す。
爾後弥勒院鎮守社として近世江戸末期まで世に謂う神佛習合時代として続くのである。

四十九院地名の濫觴は弥勒菩薩の居所(兜率天)の内院四十九の堂宇に模したものであろうか。
然しこの衆民素朴な、神佛敬仰の昇平社会は、天正九年(1581)織田軍数万の伊賀乱入により破られた、校正伊乱に曰く、
邪見放逸の愚人共、神罰の恐をも顧みず、斯く秀たる
神殿宝営を炎滅し一時の灰燼なすこそ悲しけれ、子孫いかでか其の報を免る事を得んや、浅ましき所なりとかくて世は藤堂治世となり二代高次、寛文九年九月罪状消滅、国土安穏、蒼生和楽の祈誓文を以て、現在地に再建した、天正の乱より実に八十八年の歳月が流れた。

近代に入り神社整理の嵐の中に合祀が実施され、明治四十一年十月、四十九院村鎮座の諸社は浅宇田村(現守田町)八幡社に合祀奉斎された。
本年(1981)茲に伊賀乱四百年記念に際し、鎮魂の祈りを捧げて八幡社由来を記す。
八幡神社宮司 稲住佳生 謹記
昭和五十六年辛酉六月晦』

『この山灯篭は四十九町並松地内に据えられていた、お伊勢参り神明講の常夜燈で平成十年四月氏神境内内地に遷移されました。
江戸時代の初期宝永年間(1705)には、伊勢おかげ参りに約三百数十萬人の参拝者が宮川を渡ったと伊勢山田奉行の記録に残っています。
京、近江、山城の庶民は伊勢参りの近道として奈良海道(163号)を島ヶ原宿場を経て鍵屋辻「みぎいせみち」の石の道標をたよりに久米川畔、並松、並木両小場を通り二ツ峠より青山、伊勢路の宿場に向かったのです。
当時、並松地区には松並木が延々と繁茂してその中にこの常夜燈は燃然と光を放ち、遊子の旅情を深めたものと考えさせられます。
千九百九十八年四月
稲住宮司記』

長い参道の奥に鎮座している拝殿や本殿はなかなか立派なものです。
此の場所に辿り着くまでには結構長い時間が掛かりました。
なんせ見えるものとは違うので、アクセスする道路が解りにくいだけではなく、赤い鳥居には「八幡宮」となっていたり、説明書きには何故か「長岡八幡宮」についてつらつらと記述されています。
「長岡」というのは地名でもないので、此の場所の「字名」なのでしょうか。
読み解くのが難しいです。