
三重県名張市丸之内に鎮座する「壽榮神社」です。
名張藤堂家邸跡に隣接というか、敷地内のような気がするのですが近鉄大阪線の名張駅から徒歩で五分程度でしょうか、丘陵の突端部に位置しています。
区画整理された跡だと思うのですが、前には周辺よりも広い道路が通っています。
お正月には閉まっていました。

『桔梗が丘
地名の由来
名張藤堂氏の家紋に因み、殿館跡の此地丘陵一帯を桔梗が丘と称し来れり』
『記念碑
壽榮神社の祭神は名張藤堂家の初代宮内少輔高吉であり、社名は高吉(寛文十年七月十八日九十二歳で没す)法名徳蓮院殿徳翁壽榮大居士を因とするものである。
高吉の歿後三百二十年を期して、神社の式年造営と併せ、此の地に丸之内区集会所、桔梗会館の建設を計画し、平成元年五月吉日竣工したものである。
― 略 ―
平成元年五月吉日 建之』

『壽榮神社の具足
江戸時代後期 昭和四十五年九月七日市文化財に指定
名張藤堂家伝来の具足で、大正十一年(1922)に行われた初代当主高吉公二百五十年祭に際し、藤堂家より壽榮神社に寄進されたものである。
籠手、草摺の下の佩楯・脛当なども完備しており、大名の具足にふさわしい豪華な造りである。
兜は、六十二間の筋鉢、錣は五段、獅子の前立をつけ、鍬形には緻密な金細工が施されており、眉庇や桔梗紋(名張藤堂家の家紋)を配した吹返しには銀の装飾があり、壮麗を極めている。
胴は、本小札も萌黄糸威とする二枚胴で、前胴の弦走にはお守りを入れる染皮(蝶の図あり)が取り付けられている。
江戸時代中葉以後は、復古思想が盛んとなるが、本具足もその時流を反映して全体的に復古調であり、また装飾性に富んだ作りとなっている。』

『備前長船の刀剣 一口
戦国時代 昭和四十五年九月七日市文化財に指定
壽榮神社所蔵の刀には、備前国長船則光の銘が彫られている。
幕末頃の名張藤堂家家老吹田小三郎正逵が家伝来の物を当神社に寄進したもので、長さは約85センチである。
備前国長船(現在の岡山県邑久郡長船町)で製作された刀剣を長船物といい、光忠を始祖として鎌倉時代中期から室町時代末期まで日本一の流派として多くの名工を生み出した。
長船物は。室町時代のものを「応永備前」と称し、中期以降のものを「末備前」と呼んでいる。
永享から文明にかけての約六十年間に則光の作とみえるものがあり、則光を名乗るものが何代かにわたっている。
その中でも特に、長禄、寛政、文明の頃の作に優れたものが多く、古くから「寛正則光」と称され独特の風格をもっている。
当神社所蔵の刀が何代目の則光のものかは不明であるが、「末備前」に属する優品に数えられる。』

神社の所縁や由緒についての具体的な記述はありませんが、藤堂家の守護神を祀っていたのは間違いなさそうです。
此の地は周辺部でも城を築くには最も適地となっているように思えます。
いずれにしろ戦乱の時代には実際にどのような生活を営んでいたのか興味津々です。
名張藤堂家邸跡を訪問する予定ですが、近すぎていつでも行けるという事は…、いつになるか解らないという事にならないようにしたいと思います。